読み物『残想』

こんにちは。

9月も下旬というのに、日中に陽が出ていると汗が出る暑さが続きますね。
それなのに、子猫たちは狭い押し入れの中にこもっていたりします。
猫の快適な室温は25度と聞きましたが、暑さより暗くて狭い方を優先するのでしょうか。

今回掲載する作品は、ホラー要素の強い短編です。
昭和の頃でしょうか。
下宿に住む学生のところへ、死んだはずの親友が姿を現します。
酒を飲みながらの語らいは、色恋の話となり……。

残暑厳しい日々に、少し涼しさが届けられたら幸いです。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「遅かったじゃないか、鷹居」

「ああ。遅れてすまない」

 

 下宿屋の二階にある四畳半の自室で文机に汗がじっとりと浮いた背中を当てるようにして座っていた下鶴は、音も無く姿を見せた友人に、開口一番に注意する。

 

「お前の酒はもう注いでいるぞ。ほら、そこにある」

 

 下鶴が指さした先には、毛羽の酷い畳の上に縁の欠けた茶碗が置かれていた。中には安い清酒がなみなみと注がれていて、下鶴が文机に肘を突くと、表面に波紋が広がった。

 

「何も畳に直接置くことは無いだろう」

 

 そう言いながら鷹居は茶碗の前に座った。しかし、酒に手を付けようとはしなかった。

 

「駄目だったか」

 

 下鶴の呟きに、鷹居は恥ずかしそうに笑い、短く刈り込んだ頭を乱暴に引っ掻いた。

 

「知っていたのか」

「ついさっき、鴨川が伝えに来た」

「して、その鴨川本人は?」

「他の連中にも伝えに行くそうだ」

 

 下鶴は、文机に乗せていた茶碗を取り、口を付けようとして既に空であることに気付いた。

 

「酔っているな」

「酔わずにいられるか」

 

 傍らに置いていた一升瓶を掴み、僅かに震えている茶碗に満たした酒を二口ほど飲み込むと、下鶴は熱い息を吐いた。

 

「それで、何故ここに来た?」

 

 下鶴が問うと、鷹居はふふ、と笑う。

 

「同じ学び舎に通う学友に会いに来るのに、理由が要るのか? それに、今日はお前が呼んだのじゃないか。旨い酒が手に入ったから飲もう、と」

「そうだな。じゃあ、聞き方を変える」

 

 相変わらず酒に手を伸ばさない鷹居に、下鶴は目を細めた。

 

「お前、死んだはずなのに何故ここに来た?」

 

 下鶴の視線は、鷹居を責めているわけではない。鴨川が鷹居の死を伝えに来た時の様子を思い出しながら、まだ薄暮だというのに化けて出た友人に憐憫とも懐疑ともつかない感情を孕んだ視線を向けていた。

 

「鴨川は、お前が人助けをして死んだと言っていたが」

「その通り。子供が溺れているのを見つけて、何も考えずに川へ飛び込んだ。どうにか子供を岸まで押し上げたところまでは憶えているのだがな。気付いたら自分の死体を見下ろしていたよ。まあ、なんというか、怖かった」

 

 ぱたり、ぱたり、と何かが落ちる小さな音が聞こえてきた。

 音がする場所を探して下鶴が視線を落とすと、俯き加減の姿勢で話している鷹居の頬から、滴が落ちているのが見えた。

 畳に染みができていたが、もとより大して綺麗でもない。今さら水が染みたところで、文机の周りにあるインクの染みよりは目立たない。

 

「随分無茶をしたな」

「そうだな。大して水泳が得意というわけでも無かったのに、どうしてだろうな……いや、いや、わかっている。理由はわかっているのだ」

 

 下鶴が何か言うのを止めるかの如く右手を伸ばした鷹居は、その腕からも水が滴っていた。川原の石で擦れたのだろう。手のひらには無数の生々しい傷がある。

 

「祐子さんが、いつか言っていた言葉を思い出していた」

 

 鷹居が言っている女性は、この下宿屋を管理しているおばさんの娘のことだ。通いで朝夕の食事や掃除をしているおばさんの手伝いで時折来ているのだが、鷹居は彼女に惚れていた。初めて一目惚れした、と偶々下鶴の部屋に来ていて彼女を見た鷹居が興奮気味に話していたことを、下鶴は思い出す。

 

「優しい人が好きだ、と彼女は言っていた。お前も知っているだろう。もちろん、子供が大変だと思ったのも嘘じゃない。嘘じゃないが……どうも、おれは不純だな。祐子さんに褒めてもらいたい一心で、上着を脱いで川に飛び込んだのは、否定できない」

「恥じることじゃないだろう」

 

 言いながら一口だけ、酒を含んでみた下鶴だったが、酔ったのか気分の問題なのか、もう酒の味はわからなかった。

 

「お前は人を助けたんだからな」

「だが、動機は不純で、今もこうして化けて出てきている」

 

 自分で言うようなことじゃないだろう、と下鶴は思ったが、声には出さなかった。

 

「それで、どうしたいんだ?」

「祐子さんに会いたい。それだけだ」

 

 鷹居が即答するのを、下鶴は眉をひそめて聞いていた。

 

「……やめておけ」

「なぜだ?」

 

 下鶴の言葉に、鷹居は即座に返した。

 対照的に、下鶴はすぐには言葉が出ない。

 

「ああ、そうだな、何といえば良いか……」

 

 顔を上げて、鷹居の目を見た下鶴は、すぐに視線を伏せた。

 祐子という女性のことを考える。

 黒く艶のある髪が印象的で、何かと世話を焼きたがる優しい性格は下鶴にとっても好ましいと思える。そして、鷹居との仲がうまくいけば良い、とも思っていた。

 そう、思っていたのだが。

 

「お前、祐子さんの前に化けて出るのか?」

 

 話を逸らした自覚はあったが、下鶴はそうでも言わなければ、今目の前にいる親友が成仏できないのではないか、と危惧していた。

 いや、危惧していることにした。

 自分が何を考えているのか、おぞましいことだとは知りつつも一度堰を切ってしまった言葉は止まらない。

 

「彼女を見て、未練を覚えないとも限らない。彼女に怖がられる可能性は充分にある」

「そんな人じゃない、とは思うんだが」

「あまり言いたくないが……」

 

 言いたくない理由は違うが、本当のことをどうしても下鶴は言えなかった。

 

「お前は死んでいるんだ。……言葉は、伝えておく。お前の思いも」

 

 沈黙が、部屋に満ちた。

 蒸し暑い部屋の中、風も無いせいか室温は頭がくらくらするほど蒸している。夕暮れが近いはずだが、暑さはより増しているのではないだろうか。

 下鶴は顎から汗を垂らし、鷹居は相変らず川の水を落としている。

 

「そうだな。おれは死んだ。どうしようもない事実だ」

 

 鷹居の言葉に下鶴が顔を上げた。

 まっすぐに自分を見ている鷹居の目は、先ほどまでと違って、黄色く濁っている。血走った眼は黒目の部分にまで心なしか赤味をにじませていた。

 

「成仏してくれ」

 

 下鶴が持ち上げた茶碗の中で、酒が揺れた。

 

「……うん」

 

 鷹居も目の前に置かれていた茶碗を持ち上げた。

 

「悪かったな」

「何も、悪くない」

 

 ただ、悪かったのは自分だけだ、と下鶴は口の中で呟いた。

 

「じゃあな」

「ああ。いずれあっちで」

 

 茶碗を傾けた動きをして、鷹居は姿を消した。

 見ると、畳の上には少しも酒が減っていない茶碗が残っていて、ただただじりじりと暑い部屋の中で酒の豊かな香りを漂わせていた。

 まるで、鷹居がここにいたことが、化けて出てまで親友に挨拶をしたことが嘘だったかのように。

 

「……おれの方は、地獄に落ちるだろうから、難しいかもな。その時は……」

 

 引き上げてくれないか、と言いかけたところで、誰かが部屋の前にパタパタと駆けてくる足音が聞こえた。

 

「下鶴さん? おられます?」

 

 なんという時に来るのだろうか。下鶴はふすまの向こうから聞こえる祐子の声に、何かばつの悪いものを感じながら口を開く。

 

「いますよ」

「ああ、良かった」

 

 するすると開いた戸から、祐子がにっこりとほほ笑みながら顔を見せた。

 

「お酒を飲まれると聞いて、おつまみを作ってきたんです」

 

 簡単なものなんですけれど、と祐子は両手に大事に持っていた器を置いて、蓮根が安かったのできんぴらを作った、と箸まで用意して下鶴の前に置いた。

 

「ああ、ありがとうございます」

「良いんですよ。それにしても暑いですね。閉め切っていないで、たまには風を通さないと身体を悪くしますよ」

 

 祐子は立ち上がり、下鶴の返事も聞かずにガタガタとガラス窓を開いた。

 木製の窓は開くのにコツがいるが、祐子は苦にもしない。

 

「うまい。良い奥さんになれるよ」

 

 きんぴらを一口食べた下鶴は、茶碗に口を当てながら祐子へと目を向けた。

 そして、見たくなかったものを見てしまった。

 

「そうですか? ありがとうございます」

 

 くるり、と振り向いた祐子の向こうに、夕暮れに染まる町の風景が見えていた。

 そして、その窓から逆さに見えているのは、先ほど成仏したはずの親友の顔。

 

「あ、ああ……」

「下鶴さんは何かに夢中になるとご飯も食べないんでしょう? だから、料理が上手な人が良いんじゃないかと思うんです……」

 

 恥ずかし気に、照れくさそうに頬を染める祐子とは対照的に、鷹居が下鶴を見る目は冷たい。

 

「あっ……」

 

 窓から強い風が入り、祐子は乱れた髪を押さえた。

 夜の訪れを予感させるかのような冷たい風は、下鶴の身体を一気に芯から冷やし、一度だけ大きく身震いする。

 

「一気に涼しくなりましたね」

 

 はにかむ祐子は、自分の後ろに何がいるのか気付いていない。

 気付かないまま、下鶴が言ってほしくない言葉を口にする。

 

「あの、下鶴さん。私、父からお見合いを進められていて……でも、知らない相手とそんな話をするくらいなら、自分で選びたくて、その……」

 

 両手の指を所在なさげに絡み合わせる祐子と、睨みつけてくる鷹居の顔を交互に見ながら、下鶴は茶碗を傾けた。そして、空気を飲み込んだことで空になっていることに気付いた。


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読んでいただき、ありがとうございました。

( ∀ 

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2024.08.25

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